さて、今日から「スキスキ帖」にかわって新しく、「僕のブックサーフィン」を、このweb上で連載しはじめよう。「スキスキ帖」はもうすぐ単刊本としてまとまるし、それに『エスクァイア』誌で6年以上毎月続けていた書評連載も、編集部にたのんで、アーティスト・インタビューの連載にかえてもらった。毎月、たくさんの新刊本の中から何を読み、何を感じ、考えるのかはとてもスリリングなことなのだが、僕は本の紹介者という柄ではないし、その本を使ってどんな旅をしたか、その報告書を書きたくなってしまう。とても緊張感のある不思議な書評体験だった。その40本分は『くろい読書の手帖』にまとめたし、残りのものも、そう遠くないうちに本になるだろう。
毎月1作家の1つの作品だけを書くというのは、集中できるけれど、たまたまその月に複数の読みたい本が集中して刊行された時には、本当に困ってしまう。逆に、まるで不毛の月もあって、途方にくれることもあった。「スキスキ帖」は、またしばらくしたら、この形式で続篇をつくりたいけれど、いったん本にしてしまうから終了。2つのことが終了したから、そのかわりに、きままな「新刊書評」blogをはじめることにした。
まずタイトルは「僕のブックサーフィン」。この「僕の」の語感には、僕の「先生」である田村隆一の本『ぼくのピクニック』が響いているなあと振り返ってみて思う。このあいだ未知のドキュメンタリー番組制作会社の人が田村先生を生前撮ったインタビューをベースにした『死よ、おごるなかれ』を送ってきてくれて、夜中に見た。画面の中で先生はイギリスのランズエンドやスコットランドへ行く。このビデオは僕らがいっしょに行ったその数年あとに、再びイギリスへ行った時のものだ。
それにしても先生に再会するのは、なつかしい。こうやって見ていると、先生はまだ生きていて、それは僕の中で生きているからであって、そんな間は、生も死もないのだと思う。僕にとり、先生は死んではおらず、すこしの間だけ会っていない人にすぎない。僕の本棚には、先生から借りっぱなしになったままの本もある。何も変わらないままだ。先生は、「わたし」ではなく、「僕」と言った。その語感が僕のカラダにもしみついていて、このタイトルに響いている。
本を読むのは、寝床でか移動する列車か飛行機の中。ねむくなれば、本をとじて、また目ざめれば読む。カバーも帯もとる。読む時はペンで線をひき、コトバをひろう。そして大切なページは折る。必要なエッセンスだけノートに書き写したら、もうあとは誰かさんへのプレゼントにする。本はできるだけ、たくさんは、持っていたくない。愛書狂たちが見たら怒り出すだろう。僕も本を何よりも愛すが、それ以上に、本を生きるための道具だとはっきり認識している。
時空のむこうから波がやってくる。それはいつも予感があるだけでなかなか正体がつかめない。ちらりと見えたら僕は沖に出てゆく。あとは波に乗るだけだ。僕はサーファーではないが、僕の想像では予知と旅がくっついたようなものだと思っている。本は波だ、僕はそれがくるたびに、乗りにゆきたい。
寝床の横にも小さな本棚がある。右手を伸ばせば寝たままで取れる。そこには『エスクァイア』などで書評からもれた本やら、読んでる途中で放棄した本が雑然とつっこんであって、思い出したようにそこから取り出し読む。たいていはさほど読まず、寝てしまうのだが。右手を伸ばす。つかんだ本は『セリーヌ−私の愛した男』。『なしくずしの死』で知られる「呪われた作家」セリーヌの妻である「踊り子リュセット」の告白の書だ。本をめくるとラインが引いてあって、ページが折られている。何かくすぶるものがあって、僕はこの本を読んでしまった気持ちになれず放置したままにしている。それはおそらく、誰かに先だたれて残されてしまった人の本につきまとう何かなのだと思う。僕はインタビューをたくさんしてきているので、さまざまな人に会う。大切な人を亡くした男や女たち。追憶の写真の中の人は歳をとらないのに、生き残った者はどんどん歳をとってゆく。死んだものは、くっきりと微笑んでいるが、歳をとってゆくものは、悟りなどとはほど遠く、不安にただよってゆく。セリーヌが死んでから、妻リュセットは80才以上まで生きた。そして、今も生きている。彼女の役目は、死んだセリーヌを擁護するために闘うこと。死んだ者は勝手だが、残されたものは、他者のために生きなくてはならない。なんという残酷。リュセットは綴る。「いまではわたしはエンジンのない車みたいなもの。殻が残っているだけ。こんなに死ぬのに手間がかかるとは思っていなかった」。本のページの最後までていねいに繰って、僕はまた手をのばして本棚に返す。でも、もう当分、読むこともないだろう。
前に書評集のタイトルを『くろい読書の手帖』にした時も思ったのだが、本を読む(あるいは書く)ことは「くらい」あるいは錬金術的な意味で「黒の」過程だと思う。リュセットの本は僕に闇を伝染させる。しかし、その「くらさ」は僕にとってはとても大切なものだ。そのことを鬱陶しいと思う人は本など読まなければよい。サッカーでも観て、騒いでいてくれ。
さあ、「僕のブックサーフィン」の連載のはじまりです。