何も終わっていないのに、何かを始めようとしてしまうこと。人生は流転で、自分がコントロールしようとしても、コロコロとまわっていってしまう。それを止めて、しっかり見て、ああこの目の前にいる人は自分にとってどんなに大切な人で、僕はこんな人間で、やるべきことはやり、悔いののこらない瞬間瞬間の決着をつけながら生をまっとうすることができたら、どんなにかよいだろう。しかし、往々にして人生は、何も終わらないうちに、次のことが始まってしまう。
ひさしぶりに自分のポラロイド写真集『wasteland guide』を見返していた時、そう思った。たまにこの写真集を見返すが、過去だなと思ったことは、奇妙なことに一度もない。なつかしくなどないのだ。見るたびに、僕の現実の一部になっていくという感じで、うしろにまとめた文章も読むたびに、ああ後藤繁雄という人はこういうことをしている人なんだと自分で発見して、おかしな気持ちになる。奥付を見ると2001年とあり、そうだ、911のTVの映像を最後に撮って入れたことを思い出した。
『ノマディズム』というタイトルの本がもうじき出て書店にならぶ。今は、それがどんな本なのか知っている人は、この世にほとんどいない。それが本屋の店先に並んだとたん、みんなのイメージになる。イメージが一人歩きしていって、僕が所有できるものではないものになってゆく。そのことがとても面白い。このような本をつくる時は、僕であって、僕でないものをつくろうとしているのだと思う。僕も、僕という物語の観客なのだ。
帯のコピーにこうある。「ノマディズムとは、旅と写真と愛に生きることだ」と。それは僕が書いた。世界のあちこち、いろんな人に出会って作ろうとした本だ。自然にできあがったというよりも、作ろうとして生きた。その記録のような本だ。
僕はいつも逸脱の衝動のようなものが体の中にすみついていて、落ちつかなかった。小学校の頃も、通信簿に「注意力散漫」とか「協調性がない」とか、いつも書かれていたっけ。散漫、いいのか悪いのか。でも、僕らしいなと思えるように生きてしまった。
ノマドというのは、まつろはぬもの。風来。よるべなきもの。ジル・ドゥルーズがニーチェについての文章で書いていたように、この世界の中では、呪われた者としてあつかわれる。この間も、ある書評で「ボヘミアンな人」「ロックな人」とか書かれてしまった。でも、本当にそうなのだろうか。僕は子どもの頃から、不良だったこともないし、何かにアディクトしたこともない。無頼ではまるでないと思う。
『ノマディズム』は、自分の中のまつろはぬ感覚、それの総決算みたいな本だ。菊地成孔の「パリの夜」から始まり、アントワン・ダガタとの「東京の夜」で終わる。別にボヘミアン讃歌ではなくて、ニガイ本だ。まつろはぬ自分への、決別の書、成仏させるための書みたいな気がするのだが、読者はそうは思ってくれないかもしれない。どうだろうか。
この本を書いているときにうかんだのは、『新しいうた』というタイトルの本だ。歌を聴きに旅をする本。でもその前に終わらせておきたいことがある。それはポラロイド写真集。これが終わらないと、新しい星への旅は始まらないのかなあ。そんな気持ちでいるのですが。ランブリング・マイ・ハート。
とはいえ、『ノマディズム』もうすぐ、完成、印刷中。ぜひ読んで欲しい本です。よろしく。