『不運な女』An Unfortunate Woman : A journey
リチャード・ブローティガン著/藤本和子訳
新潮社刊 1600円
原稿の締切で家にいる。でも、少しもやる気が出ない。いい天気なのに、このあいだ京都のバー、ジャンゴでかかっていて、そのあとすぐ買った「GONZALES」のCDをかける。うらさびしいピアノソロ。カナダ人のピアニストだという。おすすめですよ、聴いてごらんなさい。
買ってあって積んである新刊の山から、ブローティガンの本をとり出す。読まずにおれない悪癖。寝ころんで読み出してしまう。そして、寝てしまう。またCDをリピートでかけ、また読む。
奇妙な本だ。本は「ホノルルの静かな交差点のど真ん中に、新品の女物の靴がひとつ転がっているのをわたしは見た」というフレーズから始まる。そして「わたし」の旅の話となる。とめどない日録・地図。話はそのようにとめどなく流れ、首をつったひとりの不運な女の死にふれるが、ふれるだけで、くわしく語られず、また、「わたし」の日常的な話へと戻ってゆく。彼はこう書く。
「この本は一人の男が二、三ヶ月間生きた様子をたどる経路についてのものであることを忘れてはならない」。しかし、その試みは「失敗」の予感の中ですすめられていく。彼は日本製のノートを買い、それに、コトバを綴ってゆく。
「この本の破滅的運命の目的のひとつは、過去と現在を同時進行の形で機能させる企てなのだから」
ふつうは、物語はすでに終了し、整理したものとして書かれる。同時進行なんて失敗するにきまっているじゃないか。でも彼は、そんな不吉な未知を選択する。「そもそも最初に、こんな方法ではなく、もっと簡潔にいいたいことを書くテクニックを考えておくべきだったのだろう」。だから言わんこっちゃない、もう遅いよ!
彼は日々書く。そしてある日、コインをはじいて裏表でどう書くかを決める。表なら「モンタナにおける午前中の家事」のこと、裏なら「ある恋愛のケースについて」の報告。
ひとつの「もくろみ」。それは「わたし」の生活に起こる出来事を日録地図のような形で書き、なおかつそれが「小説」として成立することだ。ブローティガンは自分がやったことを振り返り、こう書く。
「ひとりの人間が生きていること、そして一定のときの経過のなかで、どのようなことが起こりうるかを、そしてそこになんらかの意味があるとしたら、それはなんであるかを書いてみるという、最初の意図を変えることなく、書き終えることにする。
この本は中途半端な疑問が不完全な回答に繋がれた姿で構成されている未完の迷路だな、とわたしは感じる」
「未完の迷路」。しかし、そのような「くらい遊戯」にふけって大丈夫なほど彼はタフには見えない。もちろん、自らのことを「滑稽だ」と言ってにんまりはしているのだから。だから本の最後に彼はあと10行まだ書けるところでやめて、空白のあるノートにしあげるのだけれど。
「完成」とか、あらかじめの「構成」なんていうモダニズムの意識なんかじゃ、とっても、今を生きている生の流動性をとらえることなんてできやしない。生も死も、成功も失敗も、意味も無意味もないところがポストモダニズムのいいところなんだから、ブローティガンには自殺なんてしてほしくなかったな。僕はこの『不運な女』がどんな小説であるかなんてどうでもよくて、コクヨのノート一冊を使って書かれたってことの方が重要だと思う。それが僕がブローティガンから学んだことだ。
ありがとうブローティガン、そして、さようならブローティガン。
最後に本棚から見つけた彼の詩集『東京日記』(思潮社)の中からひろい読み。
運にはよらない Taking No Chances
ぼくはその一部だ
いや、その全部であるが
ぼくがその断片にすぎない
という可能性も
ないわけじゃない
はじまっていながら
はじまりをもたないのがぼくだ
ぼくはまた頭の上まで
クソでいっぱいなのでもある
東京 1976年6月17日