東京と京都を毎週往復する生活が、もう何年も続いている。北白川にある美術大学に教えに行っているからだけれど、京都で大学生生活を過ごしたあと、東京に出て、そのうち京都と行ったり来たりの暮らしができたらなあと、夢のようなことだと考えていたら、本当に現実のものとなるのだから人生は奇妙なもの。僕はたまたま京都との縁があるだけで、人によってはまた別の場所との縁がある。別に僕だけが特別なわけではない。大阪生まれで、京都に親類縁者がいたわけではないし、いや知る人がいなかったからこそ京都へ逃げたと言った方がいい街との出会いだった。僕は京都人ではない、京都に定住しているわけでもない。しかし、性にあうのだろう。ふりかえってみると、今まで生きてきた時間の多くを京都で過ごしている。そして、これからも過ごしてゆく気がする。おそらく京都の「内の人」のようであり、そして「外の人」であるという人間になってゆくのだと思う。よく、「そんなに毎週かようぐらいなら、いっそのこと京都に引っ越してきたらいいのに」と言う人がいたり、おっちょこちょいの人は、僕が京都に住んでいると思っている人さえいる。でも、僕は東京も好きだから今の暮らしも変えるつもりはない。落ち着きたくはない。僕にとって京都は自由の街だ。そして、東京もまた、まったくちがってはいるが自由の街なのである。
東京と京都。その2つの街を僕は往復して暮らす。それがいつまで続くかはわからないが、僕という人生にとって、その行為はとても大切なことだ。東京と京都にとっての時間はとてもちがう。一方は経済の変化にとても反応が早く、むき出しの流動性の中にある。もう一方は、とてもゆっくりしていて、人間の人生よりはるかに街の時間の方のスケールが大きい。一方は夕焼けすらも見えない、方向感覚が麻痺する街。もう一方は古来よりの都市計画により、東西南北がはっきりしており、自分が今、この街のどこにいるのかを実感できる街。その他、四季の変化など、2つの街のちがいはいくらでもあげることができるだろう。少しオーバーな言い方に聞こえるかもしれないけれど、2つの街はエネルギーの生み出し方、クリエイティブの回路が異なっているとも言えると思う。東京のエネルギーは情報や人のネットワークが圧縮され、高速で撹拌されて刺激的な価値観が生み出されてゆく。京都は自然や歴史の中で、逆にとてもラディカルなもの、文化的に深いもの、五感を通し体の内からしっかりわきあがってくる官能が生成されてくる。同じ「色」であっても、2つの街では「色」のあり方がちがっていて、僕にとってはそのことがとても面白いのである。
さて、僕のような風来坊による「京あない」があってもよいかなと思う。京都の人にとっては「京都のどこが面白いねん」と思われるだろうし、京都外の人にとっては、いつも観光的な視点の京都には辟易としているだろうから。あまりかたく書きたくない。筆のむくままの書き出しにしておきたいので、最近のことを3つほど。
京都の東京でYMOが演奏するというので観に行った。梅雨のはざま。お堂の前、木立が散らばって生えている境内にパイプ椅子が並べられていた。僕はそのうしろの方に座っていて、ライトアップされた五重塔を見上げたり、風に吹かれてぼんやりしていた。何組もミュージシャンが出た。特にUAの声が響くのをうっとりと聴いていた。ラストにYMOが出た。たくさんの人が総立ちになっていたけれど、僕は、YMOのテクノの音が密教空間や、自然の木立ちや雑踏の音にまじって、どう聴こえるかに興味があった。その時、気づかされたのは、「あの音」があるから、3人の男の人たちはそれによって五感と体を磨かれ洗われ、官能的な生き物にどんどんなっていくことができるのだという「秘密」だった。イベントのテーマとかにはまったく関係なく、彼らは、東寺で音を出す快楽にひたっていた。おそらく、東寺でこんな風にテクノ・マントラが流れたのは初めてだろう。空海が生きていたら、どんな顔をしたろうかと思うと、とても愉しかった。こんな官能のあり様をたのしめるのも、京都ぐらいのものだ。
それから2つ目は、やっぱり本のことだ。flowing KARASUMAという旧北國銀行だったところを僕がプロデュースし、grafにたのんでリノベーションした。その金庫だったところで本屋をはじめようと考えた。本屋といっても、本を中心としたグッズで、いろんな人のキュレイションによって変化していくスペースだと思ってもらいたい。でも、本には少しこだわろうと思う。というのは京都を愉しもうとするなら、やっぱり本が重要だからだ。京都という場所は、歴史と自然、そして美と文学、多くの人の記憶のレイヤーが何層にも重なって出来あがったイメージの集積体でもある。だから、京都を旅することは、イメージの森の中を旅すること。これから、この「京あない」は折々に、flowingの本屋「flowing BOOKS」であつかっていく本のことについても書くことになるだろう。ちなみに今、読んでいるのは瀬戸内寂聴さんの『古寺巡礼』で、与謝晶子が鉄幹といっしょに永観堂でデートをしたくだりを読み、紅葉と恋の炎の赤を連想してドキドキさせられたりしている。
そして3つ目。これは他愛がないのだが、最近突然、京漬物にめざめてしまった。新幹線の売店で買ったのがきっかけだったのだが、やみつきになってしまっている。特にお気に入りは小さな赤大根(二十日大根)の塩漬けで、紫がかった赤と白、その大きさ、そして何より歯ごたえにはまってしまい、毎日のように飽かずたべている。今度、flowingのシェフに頼んで、お酒のつまみにこっそり出してもらおうかなんて考えたり。日本酒じゃなくて、シェリーなんかにも絶対あうと思うんだけどなあ。京野菜のピクルスもいいだろうね。