日曜日の午後、水戸の芸術館へ。美術評論家の松井みどりさんがキュレイションした展覧会『夏への扉ーーマイクロポップの時代』の内覧とオープニング・レセプションへ出かけた。奈良美智、杉戸洋、落合多武、有馬かおる、青木陵子、タカノ綾、森千裕、國方真秀未、島袋道浩、野口里佳、半田真規、K.K.、田中功起、大木裕之、泉太郎の15名。大きなキャンバスの作品は少なくて、ほとんどの作品が小さな紙に描かれたドローイング。それが壁に、飛び散る木の葉みたいに配置されている。
ここに、ていねいにキュレイトされたものは、時代の波動をうけて、アウトプットされた、小さいけれど強い叫びだ。
弱い力を見つめること。しかし、それは決して弱いわけではない。松井さんのメッセージだと思うが、「さまざまな価値のよりどころである精神的言説が権威を失っていく時代に、自らの経験のなかで拾いあげた知識の断片を組み合わせながら、新たな美意識や行動の規範をつくりだしていく“小さな前衛”的姿勢です」また「芸術的創造力の姿」とフライヤーに書かれていた。
もちろん、この展覧会を見て、時代の中に、弱く隠れているものをやさしく見つめようとしていると感じる人もいるだろう。しかし、僕が感じるのは逆で、戦闘的な態度表明なのだ。もちろん戦争をはじめようなんてことではない。いのちは、生き延びるためには反撃する。根っこをのばさなくては、植物は枯れてしまう。小さな女の子が思いつめたまなざしほど人を刺す力が強いものはない。地面に穴を掘ったり、ネットの中に匿名でカモフラージュし、ゲリラ戦をしないかぎり、滅ぼされてしまう。
僕が思い出したのは、アマゾンのジャングルに行った時に体験したことだ。密林は、不毛な岩盤の上に何万年もかけて形成された独特の生態系だ。そこには実は巨大な樹は存在しない。なぜなら根がはれないから、大きくなると倒れてしまう。大きな動物もいない。百獣の王などいないのだ。存在するのは、生き延びるために工夫されたストラテジックな小さな生き物ばかり。身を小さくするかわりに、彼らは毒針やとがった歯や爪、電気やカモフラージュなどの体内装置をもつように、体を改造進化させてきた。
「マイクロポップ」に集められた作品は、実はすべて切実な貌をしている。やさし気に見えて猛毒をもつ。フロントラインの生き物なのだ。
会場をまわって、野口里佳さんの写真の部屋でいろんなことを考えた。彼女の写真は、ピンホールカメラで太陽を撮影したものだ。星や物質やそして、ここに生きている我々も、すべては、あのおそろしいほどの高熱で燃えあがる光の球がうみ出したのだ。光が物質になり、物質が光になる。彼女の写真はその断面を展開してみせた傑作だと思う。
闇が去り、太陽がのぼることは人に幸福を与えると同時に、太陽をみつめすぎた者は盲目になり、視覚を失ってしまう。その「力」のパラドックスのことをぼんやり考えていた。
再度言っておこう。松井さんはこの展覧会を、やさしく、かわいいものがいいなんてことを言うためにやっているのではない。逆だ。いのちが前へ進むための戦い。会場で配られていた松井さんが書いた「マイクロポップ宣言」には、「マイクロポップな立ち位置とは、ポストモダン文化の最終段階において、精神的生存の道を見出そうとする個人の努力を表している」とある。非人間化への進化に対する抵抗運動《レジスタンス》、組織化されてゆくことからの“ずらし”、そのための変形。ここにはありとあらゆる生存のための小さな戦略が、けなげに体を開いている。
今度もう一度、平日に、会場がガランとしている時に行ってみて、もっと作品と対話したいと思っている。
水戸からの電車の中で、節分なので買った巻き寿司をまるかぶりしながら東京へ帰った。
旧い年よさようなら、新しい年よこんにちは。
鬼は外、福は内。
*『夏への扉ーーマイクロポップの時代』
水戸芸術館現代美術ギャラリー/現代美術センター 2007年2月3日〜 5月6日
http://www.arttowermito.or.jp/natsutobira/natsutobiraj.html
夕方、やっとのことで新宿三丁目のテアトル新宿にすべりこみセーフ。年末からずっと気になっていた松本大洋原作のアニメーション『鉄コン筋クリート』を観るためにやってきた。記憶のねじれに現れたみたいな「街」、宝町。愛着と哀切と思い出が集積した九龍城状態の街。街を計画するという企ては、欲望や生活のドロドロやため息まじりの人生でカオスとなる。いいじゃないか、ライフ・イズ・スイートなら。この街は誰のもの? みなしごのクロとシロは、屋根から屋根へと飛びまわる。何者にも支配されないのさ、動物として生きればね。古い街はどんどん壊され、拝金主義の嵐が吹く。じゃまする者は消せ、殺れ。ヤクザ、
成金、殺し屋、サツ。マンガで読んだ時、切なくて、やんなった。誰に話してもわかってもらえない、自分の壊れたところを松本大洋が描いていて、こいつはどんなやつなのか会ってみたいと思いながらも、会っても、こっちがモジモジするだけで、お手上げなのもわかっているから、気持ちに封をしていたのに、アニメが始まって、これはすっかりやられた。アニメ化をやってのけたアリアスという監督もすごい。傑作だ。
新世紀は、キリスト教原理主義とイスラム原理主義が、人をおせっかいにも、善道へ導くと称して地獄を生み出している。僕らは、平和なアブクの中で、どうやって生きているの? このアニメのスゴイところは、個人の心の底にある、子どもの時のわすれていたキズが全世界への問いとしてフルボリュームで再生されるところだ。それはあらゆる思想、宗教、そして、人生をまぎらしてくれる欲望の慰安をふきとばして、人を成り立たせているものは何かと、魂を全裸にする。クロが電柱のてっぺんに立って、「血」と描かれたTシャツ姿で立っているのを見た時、世界と向き合うって、こういうことなんだよなと思い、不覚にも泣けた。親や先生が死んだ時も、泣けなかったのになあ。
全世界のヒトデナシ諸君!! 殺し屋諸君!! アバズレ諸君!! こっそりと観に行ったほうがいいよ、『鉄コン筋クリート』を。子どもだましのアニメと思っちゃダメだよ、しょせんオレたちも、古ぼけたって、子どもなんだから。
思想とか、戦略とか、クリエイティブとかの、世界をわたっていく小賢しい知恵がまだついてない時にインプットされたものは、大人になって身につけたものなんかより、生涯ついてまわる。僕の場合は、『プリズナー No.6』のシリーズがそれにあたるが、今頃になって、あれと同じぐらいグサグサくるものがあらわれてくるなんて、なんて人生なんだろ。クロはオレだと思う。だけど、こっぱずかしくて言えない。けど、言ってしまいたいと思う人はいっぱいいるだろ? なんで? けっして口が裂けても言えない小さな秘密、世界と自分の裂け目をみんなもっていて、時限爆弾みたいなものを体の中にもって生きている。原理主義の世界じゃなく、高速の消費の嵐が吹く荒地で育った。親ナシの子どもたちは、そうやって生きのびてきたのだということだ。オレも、そしてアンタも。
このアニメを見たからって、何かが救われるわけじゃない。ただ、「ネズミ」や「木村」や「蛇」みたいに生きたくはないことは確認できる。シロのために生きるクロ。おまえの人生には、どっちみち幸福なんてコトバは存在しない。「切実」の「切」断と現「実」だけ。
テアトルから出て、呆然として、新宿行きつけの店に行ってギネスの生を一気飲みしようとしたら、隣のテーブルでニタニタしてるヤツラがいてよく見たら、中沢新一御一行だった。実はほとんど20年ぶりぐらい。「後藤君さ、なんか毒気ぬけたみたい、何かまたできそうな感じ」。実は言われてうれしかったな。「それっていいことなのかな?」そう聞いたら、中沢さんは、「昔は毒気ありすぎだったからさ」と言った。オレはクロのままか。やさしくなったクロか。ヤツラは気をきかして、すぐ去った。
ヘンな夜だ。
どこかへしけこんで、愛したり、愛されたりして過ごしたいな。
寝る前、目をとじるとまだ、壊れた街の屋根から屋根へと飛びまわり、空中から、死んじゃうかもしんないのにフワフワ落ちていくクロとシロの姿がやきついて離れない。このアニメは全然やさしくない。逆襲、小さなものの逆襲。そう思って、前の原稿にどうしてもつけ加えたいと思って書いた。