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僕は塩田正幸という写真家と、彼の写真を、とてもかっている。それは、彼の写真の中に、写真というものが、新しい世界に突入しようとしている様を強く感じるからだ。それはちょうど、それまできちんとしたメロディとリズムがあった音楽というものが、急にテクノやノイズに移行した時みたいな感じに似ている。でも僕がそう言うからと言って、塩田正幸の写真=パンクなどと言っているのだと、早とちりしないでもらいたい。彼の写真は、汗くさくなくて、まるで隠者の棲む竹林のサワサワいう音のようですらあるのだから。コトは、そんなに単純な話ではない。
僕はよく塩田君に面と向かって、「君の写真は、森山大道の最大のライバルだと思う。でも、全然ちがうけど」と言って、塩田君に「何わけのわかんないこと言ってんの」と逆つっこみされる。もう少していねいに言うと、森山大道は現実をコピーしてるけど、そのプリントはヴィンテージと同質のクオリティの方向に背負い投げされるのに対し、塩田君は本当に写真をモノクロコピーし、プリントにする。ここが、「音楽の差」というポイントだ。
森山大道も塩田君も、現実をコピーするということ、その写真の生々しいあり方を使っている点では、似ているけれど、塩田君は現実を、ノイズの強度の違いで捉えようとする。彼が自分で出版した『DOGOO HAIR』『LIFE HUNTER』を見るとわかってもらえるだろう。僕はそれが、今後、よりはっきりしてゆき、大きな作家性として、皆にも見えるようになると確信しているのだ。僕にそう言わしめるもの、それは、彼がはじめて、写真をノイズというものとして捉えている写真家だからだ。そこにおいて、彼は、写真を都市の無意識や物語性により、さも意味ありげに自己陶酔してしまう、多くの写真家と決定的な差をもつ者だと思うのだ。
こうなったら、行きつくところまで行こうぜ、塩田!!
さて、今回の展覧会は、『エスクァイア』誌のニューヨーク写真特集号の時に、塩田君に同行してもらい、いろんな写真家の家を巡り訪れた時の、ポートレイトなどを中心に構成する予定だが、でも、単純な写真展なんかにはならないだろう。
この写真の旅の成果の一部は、『エスクァイア』に結実している。元村和彦さんとともに行った、ロバート・フランクへの巡礼、そして、9・11以降に台頭しつつある、僕が選んだ11人のリマーカブルなニューヨーク在住の写真家たち、そして3人の写真キュレイターと、1人のブックショップオーナー。それらの人への巡礼と遭遇の意味は、僕にとってもじわじわと、これから体に効いてくるだろうし、同じように塩田正幸にとってもそうなるだろう。未来に花咲く種を、自分の体に蒔けたなんて、とても楽しみなことだ。
2007年の幕開け。それを「塩田正幸の写真」からスタートできることは、とっても愉しい。
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地下街で缶ビールを買いこんで、プンクトゥムへ行く。塩田君の写真展オープニング。京橋の小さな写真スペース。今日は、オーナーの寺本は熱出して寝込んでるらしい(カワイソーニ)。入ると、grafの椅子に(オープンの時に服部君にたのんだ)、邑元舎・元村和彦さんがすでに来てて、そこで約束してあったロバート・フランクの写真集『ザ・ラインズ・オブ・マイ・ハンド』の代金を払い、本を受け取る。元村さんには、フランクさんの取材の時に本当にお世話になった。
会場は壁に額に入った小品が3つ、真ん中にはコピーで「ワンダラー」と「ジョージ」とつけられている。何のことかわからないのであとで塩田に聞いたら「わかんないの? 顔に見えるでしょ。だからNY FACE。そいつの名前がタイトルなの」と、しかられた。街上のオブジェやビーチのわれたスイカ……。なるほどねー、顔に見えるよ。塩田、そいつは面白い。
その他にも、『エスクァイア』の取材の時に撮影した写真家たちのすべてのポートレイト、路上でファウンドされたものたち、そして元村さんといっしょにコニーアイランドへ行った時の写真が小さくプリントされて、天井からつるされた大きなコピーの裏にはりつけられてる。ここが、ニューヨークやロンドンだと思えるぐらい。クオリティが高くて、リラックスしてて、そして来てる人たちもいいカンジ。ひさしぶりに角田純一やゴキタ君や、高橋恭司にも会った。万代君や頭山嬢とか、これから必ず出てくる若手写真家も来ていた。プンクトゥムの、いい夜。
NYで塩田君とフランクのところへ行った時、フランクが行くべき道を選ぶこと話してくれたこと思い出した。正しい時、正しい場所。それに気づくこと。塩田は、それをうまく選べたのだ。
今、エリック・ドルフィーを聴き、元村さんから買ったフランクの写真集を見ながら、でも僕は、塩田君とその写真のことを考えている。