エバ・ジェルバブエナが黄金色の枯葉の山の中に、たおれる。2人の男たちがやってきて、彼女の両腕を棒にしばりつけ、彼女は地面をひきずられながら舞台の外につれてゆかれる。その時、闇の中には、子どもの声が響いている。
雨はきれいなものなんだ。学校の庭に降る雨は、小さい裸の女を大勢運んできて、壁にぶっつけて、星みたいに砕いていた。見なかった? ぼくは五つ、いや二つ、いや一つ、そう、まだ一歳のときだった。雨の女をつかまえて、二日間、金魚鉢にいれておいたんだ……
舞台は終わり、幕が落ち、客電が野蛮に、まわりを明るくする。新宿文化センター大ホールの客席の、9割は女性で埋まっている。
ああ、俺は何を見たんだろう。心の中も頭の中も、そんな声で満ちている。エバ・ジェルバブエナの踊りを見たのは、もちろん初めてだった。きっと踊りがはじまってから、舞台が終わるまで涙が止まらなかった女の人もいるだろう。
物語の筋も、魂をとりこにする歌い手たちのガルシア・ロルカによる詩の内容も、まるでわからない。にもかかわらず気持ちは高ぶり、生から死、死から生への旅。火や闇をくぐるようなパッションの旅をして戻ってきたように全身全霊が圧倒されてしまっている。エバ・ジェルバブエナのフラメンコは強く、ほれぼれとする。崇拝したくなる。いや、つけ加えなくてはならない。年を経た男性の、カンテたちの声のなんと官能的なことか。そしてエバの夫であるパコ・ハラーナのギターの超絶なる響き。
声の渦の中で、彼女の指は、咲いては朽ち果て続ける花びらのように高速でうごめき、靴は魔法にかかったようにリズムを刻む。顔をあげる、腕は宙を切る。
甘く、にがい。感情の液を煮詰めて、かぎりなく濃く、凝縮させたもの。その液が体の中に入り込む。
それは、情なのだ。
もちろん、恋や哀しみの機微もあるのだが、それを全部ひっくるめたものが愛であり、それをもっと煮詰めたものが情というものなのだろう。そして、情イコール女の世界を見たのだと思う。隣にすわる女性たちは何を見ただろう。おそらく多くの女の人が、励まされたように思ったろう。それは宗教の崇拝や、憧憬ではなくて、それぞれの女の人の中にある炎を大きくしたということだろう。
劇場から放心したように新宿歌舞伎町の裏街にさまよいこむ。今夜は、場末がいい。路地の迷路がいい。まじりあった異国の味か、甘い酒か、それとも狂って恋するキスの味か。