大阪の夏は、異様に暑い。常宿の日航ホテルの窓からは、まだ早朝だというのに、ジリジリと強烈な太陽の光が射しこんでくる。
僕がプロデュースを担当した、写真家・澤田知子写真展『MASQUERADE(マスカレード)』のために、この数日、大阪に来ている。KPOキリンプラザ大阪で僕は今まで、いくつもの展覧会をキュレイションしてきたが、「写真家」では、やなぎみわ(『My Grandmothers』)、長島有里枝(『Her Projects〜memories of no one〜』)にひき続いて3人目にあたる。すべて女性。だから、後藤は女性写真家しかプロデュースしないんじゃないかと陰口を言うやつもいるけれど、それは別にヘンに意識してのことではなくて、たまたま、自然の流れと言っていい。
とはいえ、90年代の、世の中的に言う「女の子写真ブーム」のリアクションからそれらの写真展を手がけてきたのはまちがいない。単なるフェミニズムという意味での「女性性」を超え、女流写真家、そしてその写真が僕に教えてくれることの深さ、豊かさ、根源性あってのことなのである。したがって「彼女たち」との仕事は、僕にとって、実に重要なものとなる。
澤田知子は、「ID400」という、「証明写真」の形をかりて、多様に変化する「自分」を表した作品でいきなり世に出て木村伊兵衛賞と、NYのICP新人賞を同時受賞するという快挙をやってのけた。しかし、彼女の写真についてまわるコトバは、「変身」であり、「コスプレ」であった。僕も当初は、そのような世評もあって、正直、澤田知子の写真についてどう捉えてよいかわからなかった。しかし、ある時、彼女の写真が、「他者」へ変身を遂げようとしているかに見え、実は、その中心にあるものが「顔」であることに気がついた。シンディ・シャーマンのような写真とは本質的にちがうのではないか、ということなのだ。ある時、そのことを澤田さんに告白したら、「あたしの中で、顔ということがうかび上がってきたのはこの2年ぐらいなんですよ」と返事がかえってきた。これはとてもいい出会いだったと思う。
写真とは不思議なもので、どんな高度な写真教育をうけた者の写真も、コンパクトカメラを持った女の子写真と並べられる。いや、アートと写真と、ファミリーフォトだって同じテーブルの上に並べられるのだ。澤田さんの写真は、プリミティブなアイデアに見えて、社会にある「写真」(たとえば「証明写真」であるとか「卒業写真」とか)を、もう一度、自分を起点に写真化したもの、つまり、「写真の写真」なのである。
澤田知子の写真、それは、「起源の写真」というものをリプレイするものではないか、そう思った時、がぜん展覧会を企画したいという衝動が走った。同時に、澤田さんからは「顔」をテーマにした「マスカレード」(ホステス)、「リクルート」、「アピアランス」、「マスク」といった新作プラン、そして、10年間に美大生の時にはじめてつくった澤田知子の起点となる写真を同時に公開するプランが提出されてきたのである。そうやって『マスカレード』展は進んでいった。
2日前、設営現場ではじめて壁面にならんだ「ホステス」たちの写真を見た時の気分を今でもはっきりおぼえている。これはひょっとしたら、今までの澤田知子を初期とするなら、第二期のスタートの作品なのだ。それをプロデュースしてしまったという実感である。おまけに今までの作品は、ある写真の形式をかりていたが、これは写真機に対して斜めにポーズをつけ、見る者を挑発する。いかに写真の力を使うか、その点においても従来なかったと言っていい。
いや、こうやっていろいろ書くのはもうやめよう。正直言って、僕は澤田さんの写真について言いたいことはたくさんある。でも、それを整理するのはここではやめておこう。なぜなら、僕はこれらの澤田さんの写真の力にとても魅力を感じている。見ていると、楽しくなるし、明るくなれるし、笑えてくる。きのうのオープニングにたまたま篠山紀信さんがやってきたのだが、僕と同じような感想を言って、とってもいい気持ちそうだった。
自分がこんなに露出しているのに、エゴではなくて、見るものを気持ちよくしてくれる写真。僕はそれを愛の写真だと言いたい。別にオセンチに言うのではなくて、ロラン・バルトが『明るい部屋』で書いた、愛の狂気としての愛の写真だ。もちろん澤田さんの愛は狂気ではない。やさしさの力のエクストリーム、それだと言いたいのである。
大阪に来られた人は、ぜひ見て下さい。みんながどんな写真を撮ってよいか袋小路に入っている中で、ほんとにのびのびと、澤田さんは写真を楽しんでいますよ。写真の愛の新世界。そのオーラをみんなで浴びましょう。
*澤田知子展『MASQUERADE(マスカレード)』
2006.07.15 - 09.03
KPOキリンプラザ大阪4、5階