このあいだ表参道にあったNADiffのラストを飾るイベントとしてミュージシャンの井上鑑さんの3DAYSがあって、そのラストが佐野元春さんをむかえてのスポークン・ワーズイベントだった(NADiffは2007年末に、恵比寿へと移転!!)。
日曜の夜だった。僕は何をおいても駆けつける。佐野さんとのつきあいは、彼のカセットブック『ELECTRIC GARDEN』の編集にかかわったのが縁で、その後も、仕事を超えて、何かはっきりとは言えないもどかしさがあるのだけれど、同級生的な友情を一方的に強く感じる。僕は他の男性にそのような気持ちを持つことなしに、齡をとってきたので、わかりにくいかもしれないけれど、個人的には、とても「例外的」なことなのだ。
僕が佐野さんに好意を寄せるのは、彼がどんな時代においても、インディビジュアリスト個人主義をはっきり持った人で、つねに自分のスタンス、自分のやり方を持つということだ。迎合も、まねもしない、でも、つねに他者に向かって開こうとする。あせりや、人生論のうんちくを言うこともない。
もちろん佐野さんは頭のてっぺんからつまさきまでアーティストで、僕はエディターという立場なのだけれど、すごく時間をかけて、その立場を超えた「接近」というものが起こってゆくものなのだと、強く感じるのである。僕は佐野さんのスポークン・ワーズを聴くと、強いポエジーを感じる。日本では詩人というと、一人孤独にコトバを紡ぐ人のように思うが、本当は詩人とは世界をエスプリをもって、つまり、知と笑いをもって転覆する天才なのだと思う。その才を佐野さんは他の誰よりも持っている。「現代詩」などに硬直してる人より、はるかに「全身詩人」なのだと思う。
NADiffの夜は、素敵に終わり、それからしばらくしたある日、佐野さんの新しいアルバム『COYOTE』が贈られてきた。信藤三雄さんが自ら撮ったジャケ写のモノクロ写真にもダブルにぶっとんだけれど、1曲目からやられた。バリバリの初期衝動ロックなのであった。「星の下 路の上」はギターのリフとドラムにのって、こんな歌詞ではじまるのだ。
単純なSorrow
目を開いて一歩前に前進
肝心なTommorow
半端な言葉じゃ言えないくらい
溢れてくる涙の向こう
灰にくるまって
とか、「悲しいときは/風を切って歩いてゆけ/うれしいときは/光とともに踊れ」とか、「死ぬまで悩み尽きない/明日また路の上で」とか、「ボーイたち」にむかって、生なことこのうえないコトバがシャウトされるのだ。2曲目は、僕にとってはジャストなキーワードである「Wasteland」が採用されているし、3曲目の「君が気高い孤独なら」も、かなりやられてしまう曲なのである。この曲はスローテンポで、語りかけるようにこう始まる。
もしも君が気高い孤独なら
その魂を空に広げて
雲の切れ間に
君のイナズマを
遠く遠く解き放たってやれ……
アップテンポ軽快に、佐野さんは「君」を励まし続ける。しかし、そこで使われているのは「気高い孤独」というフレーズ、そしてリフは「Sweet Soul, Blue Beat」なのである。「君」は「イナズマ」を放って、「どうしようもないこの世界を強く解き放たって」やるのだ。50才をこえて、ためらいなんてもちろんなく、超当然のこととして、「青いコトバ」が歌われてゆく。枯れるとか、うんちくとか、シブイとか、そんなものは、佐野さんの音楽には全く無縁だ。僕はこのCDを何回もリピートして、痛快のあまり笑い出してしまった。そう、こうでなくっちゃいけない。そう、これでOK。これが正しい。
佐野さんは、ビートニクの魂をもつ。でも、ドラッギーでも瞑想的でもない。明るく、快活で、そしてシュールだ。こんなやり方に気づき、何のまよいもなく、たんたんと進んでいる「知性」は過去に誰一人としてない。佐野元春というコヨーテは、かつて日本人の男性の誰一人として体現したことのないカッコイイ者になりつつある。
とてもユニークで、本当にすばらしい。いやあ、なんて伝えたらいいんだろう、このステキな感じ。美しく、ゆかいで、解放されるんだなー、これが。