春は花の季節。最近はラナンキュラスが流行で、贈るには華やかでよいけれど、日々見るには、みすぼらしさがきわだってしまう。デイジーやマリーゴールドもそう。花は、時の花。だんだん咲いてゆき、姿が妖しさから怪しさへと変化《へんげ》してゆく様のすべてが、かっこよい花の方が好きだ。だからやはりバラが好きだ。朽ち果ててゆく姿も妖しいままで、貧相にならないから。百合も同じく、すごみがある。いっそ桜のように、美しいまま、ぱっと散ってしまうのも時の花としてすばらしい。今年は、桜をたくさん見ることになる気がする。今からとてもわくわくする。
時のことで思うのは、写真のことだ。あわてた写真は残らない。テリー・リチャードソンやヨーガン・テラーの写真は、ストロボを強くあて、ある瞬間を盗み撮るかのように、仕上げる。それらはある「瞬間感」を強調している。彼らの写真はラフに見えて、非常に厳密さをもつ。逆に、ヘタな写真は、あわてた写真だ。彼らは、あわてていない。名打者が高速のボールを止まった球のように打つように、あわてていない。
瞬間をいかに深くするか、イメージの強度とそのことはとても関係している。それは実は、記憶になるものと、ならないものとの秘密にも関係している。深くなければ、すべては忘れ去られてゆくだろう。
キスをする時、あわてると恋は成就しないだろう。キスは唇と唇が合わさればよいわけではない。互いが互いのことを感じあい、まじりあう感応の深さを瞬間的に得られなければ、かけがえない、2度とない出会いにはならないだろう。キスの官能の強度は、イメージの強度でもある。瞬間を深くしようとするイメージをもてないキスは、恋を育んでゆかない。もちろんSEXも。
花と、写真と、キスの3つのことを書いたが、そのどれもが、時と官能の強度に関係している。それらは、とても似ていると僕は思う。そこに、区別はないのだ。そして、そのことを考えるたびにドキドキしてしまう。
死ぬまでドキドキし続けて生きてゆきたい。ていねいで、貪欲に時を味わってゆきたい。