今日は、大学で僕が学科長をやっているASPの、卒業発表会があった。大きな教室に、回生もばらばらに、来たいやつがきて聴く。ASPの恒例のお祭りだ。8人ぐらいの発表があって、それは卒論で高得点、高評価した人とはかぎらない。ふだんおとなし気味だけど、いっちょう発表してみたら、というような人をゼミ別に選んで推薦する。ジャンルは絵巻物も仏像もデザイン論もあるし、現代美術もある。どれも面白い。その時感じたことで記録しておきたいことがある。
ヨシカがカールステン・ニコライについての卒論発表をした。「テレフンケン」や「シンクロン」や「雲の結晶」。終了し、会場から、いい質問があった。「カールステン・ニコライの作品は、テクノロジーを使っていても、パイクの頃と随分ちがう気がしますね」という感想。ヨシカは答えて「身体性がちがうんです。自分が“粒子”みたいにあつかわれてる。それがいやじゃないんですよ」とニコニコしながら言った。孤立・アイソレイティッド・ボディ。でもいやじゃない。ヒトデナシ、でも、いやじゃない。
モリカワが奈良美智についての卒論発表した。「大きな物語の終焉」や、「物語消費」。そして、断片化。小さな絵やAtoZが再生させようとするもの。モリカワは上手に論文のストーリーをつくり過ぎて、ズレや違和感を、アルのにナイようにあつかってしまった。事前と事後では、もう物語は同じではない。ズレの味。違和感のある味。モリカワは、そこをもっと書くべきだろう。でも今日、気づいた。
最後にムラキョンが河原温のデイト・ペインティングについての発表をした。生と死が同居した世界、それがまとめだった。ムラキョンは、人前で発表するのを極度にいやがるけど、よくやった。ムラキョンにとって、単に河原温はニヒルなものではない。「生と死が同居してるところが、私にはしっくりくるんです」と、彼女はニコニコしながら言った。僕は机の隣にすわってるミナミと、「みんな別々の発表をしてるのに、同じ背景があるなあ」という話をした。ヨシカの粒子、モリカワのズレ、ムラキョンの生死。そこには同じ体温がある。たとえ絶対零度だとしても温度はある。同じノイズと言ってもいい。それぞれは宇宙で孤立していて、互いにわかりあえると期待なんてしてないのに、ふっと重なりあうもの。モアレのように、像が浮かぶ。互いにしゃべりあっているのに、違和と共感が蝶の表面の虹色みたいに角度によってちがう色になる。理解ではなく、正解でもなく、ランダムに瞬間瞬間だけに反応しあってうまれる味だ。甘くも、辛くも、ニガクもある味、なんという複雑な味。
僕らが胎児だとすれば、いま・ここで浮いている羊水はどんな味? そんなイメージ。
複雑な味は、はかなく、うつろう味ではない。きっちり確認しあえば、こんな強い味はない。愛さえ生まれるかもしれない。つまり、クセになる味なのだ。ヨシカやモリカワやムラキョンが感応した味は、彼女たちにとってもクセになるだろう。僕にもクセになる。ヘタをすると愛してしまいそうだ。
夜中、目がさめたら、電気をつけっぱなして、原稿を書きながら倒れていた。電話がかかってきて、気づいたのだ。遠くにはなれている人と、近くにいるような気分で話していたら、今日体感した「複雑な味」のことを思い出して、これは記録しておかなくてはならないと思って、今書いている。
わすれたくない、大切なこと。まだ、あまり、書かれていない大切なことがある。