観測史上、一番暑かったらしい夏が急に終わった。僕はTVも新聞も読まなくて生きているので、天気予報がどうなっているのかは、知らない。朝起きて、窓の外の木々のこずえと空を見て、今日一日がどんな日になるのかを想い描くだけだ。「夏が終わっちゃったねえ」などと軽口をたたきあいながら、明大前の駅前のマンションの隙間道をぬけて、塩田君が僕を家へ案内してくれる。むらさきの花がアスファルトの上に散っている。地面にすわりこんでパンをたべているカップルがいる。雨がいまにも降りそう。僕の布のバックにも、小さな折りたたみ傘が入ってる。きのうの夜、めずらしく飲み過ぎて、アルコールで体と心のもやもやを無理やりごまかそうとしたので、ばちがあたった。でも秋のおとずれと、体の重さが、妙に一致している。何かが去るということは、何かが始まること。でも、何が始まっているのかは、まだ、僕にも誰にもわからないこと。
雑草がはえて、標札のない家につく。ドアをあけると、2階から黒猫のキルがむかえにくる。青く光る鈴、きれいな首輪。僕はひどい猫毛アレルギーなので身構えてしまう。キッチンとつづいたリビング。ソファに腰かける。ゆるく扇風機がまわっている。
コップに水。ゆっくり飲む。僕は今日は、塩田君の「むかしの写真」をもう一度見直したいと思って、彼の家にやってきていた。部屋には人形やオブジェやおもちゃや本があふれている。塩田君が立ち上がって、レコードをかけにゆく。ゆったりしたアコースティックのカントリーがかかる。ちょうどいい速度だ。いろんな話をする。よいエネルギーと悪いエネルギーの話。起こることと、起こらないこと。写真は不思議なもので、撮ると、それは自分の現実の一部になって、自分の行く先のサインとなる。すぐれた写真家はそうやって、自分の未来をつくってゆく。これが僕が写真家からたまわった恩寵だ。インタビューも似たところがある。出会いが、未来をつくっていってくれる。自分の人生を遠いところまで運んでいってくれる。
「これは何?」と僕はきく。「ジュディー・シル」と塩田君がアナログ盤を僕に手わたす。「70年代の人、幻のアルバムだったらしい。最近再発されて。CDもあるよ」。窓からのすきま風。塩田君はたばこをふかして言う。キルが歩きまわる。僕にすり寄ったり。きれいな目、きれいな黒。とても不思議なことに、一度もくしゃみも、かゆくもならなかった。初めてのこと。雨が降り出す。スコールみたいだ。「じゃあそろそろ見る? 出しといたんだよ」。2階から茶色の袋をもってくる。
4冊のポートフォリオ。いや手製の写真集。10年ぐらい前の写真たち。友人。アメリカへ行った時の風景。車、ヒト、見上げたビル。ストリートフォトグラフス。アルバムのタイトルにwinner and loserと手描きされている。バーニングマンのところは行った時、ある男がつけていたバッジのコトバだと塩田君は言った。カウチに2人ですわって、一ページずつ、何度も見返した。時期というものは不思議だ。ダメな時は、いくらやってもダメなのに、時が過ぎ、経めぐればうまく行く時もある。タイミングというのを知ることが、最大のマジックだと思う。僕はやっと今、写真ギャラリーのプロジェクトを始めようとしていて、塩田君をさそっている。奇妙な言い方だけど、いろいろ経て、「愛」ということにたどりついた。作品や作家をあつかう時の、アティテュードとしての「愛」。ちょうど、ロラン・バルトが『明るい部屋』の第二部で語った「愛」のように。
あまりに気持ちがよくて、キルも椅子の上でねむってしまい、これで一日が終わってしまってもよかったのだけれど、ドン・チェリーが演奏するセレニアス・モンクの曲がかかった時に、「かえるよ」と言って腰をあげた。塩田君といっしょに明大前駅へむかう途中、彼がいつも行く古本屋へ行く。「見てもらいたいものがあるんだ」。本屋の奥にあったのは、ボリス・ミハイロフの写真集『ケース・ヒストリー』。無残で、とびきり美しい。僕はボリスとの邂逅の話をする。くわしいことは、『ノマディズム』に書いたからみんなも読んでね。
夜、マジカルでの移転パーティーから帰って、夕方買っておいたジュディー・シルのCDを聴く。シルは、35才で、ドラッグで死んだらしい。2枚のアルバムだけを残して。こんなに美しく、魂にしみる音楽をつくり出した人は、癒されない魂をドラッグで慰安しようとした。そして、幸せとはいえない一生を過ごした。
シルはアブラカダブラという呪文が好きだった。それは、錬金術師が、卑金属を貴金属にかえるときに使う呪文だとシルは言っていたという。
アブラカダブラ。塩田君、なんだかありがとう。君は、僕の夏の終わりにふさわしい、音楽を教えてくれた。それは君が意図したことではない。でも、タイミングの魔術とはこのようなことなのだ。
アブラカダブラ、良いことが起こりますように。