誰かをどこかに連れて行ったり、誰かさんにどこかへ連れていかれたり。人をもてなして、喜んでくれるのはこちらにとっても喜びだし、もちろん、自分がそれまでに知らなかったところに行くというのは、とってもありがたいことだ。スーパースクールは、僕がもう10年以上もやっている「編集の学校」だが、同時に「編集室」でもあって、時々、いろんな企画がたちあがる。公園でギャザリングしたり、東京を面白くする人を勝手に100人ノミネートしてインタビューしwebに連載したり、今回は、誰かが誰かを自分の気に入っている秘密の場所につれていくのを約1ヶ月間、チェーンでやってwebで連載していくというもの。僕は玉城さんにつれて行かれ、小川さんをつれてゆく。これも偶然の配在なのである。
武蔵境から乗り換えて、新小金井へ。駅前は、日曜ということもあって、喧噪とはほど遠く、小さくてひっそりとしている。ひっそりはしていても、でも、さびしくはない。いい感じのおばさんがやっているお店みたいな空気だ。住宅地を歩く。どの家もまるで無防備で、見知らぬ人におそわれたりするなんて考えたこともない人たちが住んでいる。家々の植木は武蔵野の風土から養分を吸って、生き生きとしている。おもちゃの電車みたいな多摩川線には「いちご橋」がかかっていて、その上に立つと、まわりの家の暮らしがのぞき見できる。眼下の線路には、菜の花、むらさき大根の花。5分咲きの桜の坂のベンチで休憩。立て札が、ここが古代人が生活した跡だと教えてくれる。アースダイバーだなぁ。
野川に出る。川の上流に目を走らせると、うす桃色に咲く桜の並木や、子どもたちが、遊びまわる緑地。そしてまだ、芽を出す前の枯れ木に狂い咲く白い花の満開があって、こんな天国的光景が日常の塵界に、あたりまえみたいにあらわれたことへの驚きに、ただただうっとりする。見事な自然に見えて、それらはきっちりと「手」の入った自然であり、その心にくいまでの世話ぶりが、この熟こなれた空気の元にあるのである。
白いこぶしの満開の木の下に立っている。今まで体験しなかったことだが、こぶしの香りに酔う。弱い太陽の光が、花をきらめかせ、その背景には青空があり、時折、風が吹いては、白い花を地面にばらまく。春の天気の気まぐれは、残酷なぐらい。
川べりを歩き、ざりがに取りの3人小僧(ギャング)がいる「どじょう池」をかすめ、子どもたちが木の枝から吊されたブランコで遊ぶ「プレイパーク」をひやかして、また再び下流にもどり、宇宙人のグラフィティのある橋げたのところへ辿り着く。そして今度は野川公園の中に入ってゆくのだ。
僕はどこにいるのだろう。あまりに穏やかで、にこやかで、それではまるで、話にきく「あの世」ではないだろうか。こんな幸いな場所は、戦禍にまみれる地球の上には、そんなにたくさんないにちがいない。しかし、それがここにある。小さな奇跡? 幸福の不思議。いや、幸せすぎて、どこかへ逃げ出したいわけではない。人生は、偶然の枝わかれの連続。ブルース・チャトウィンみたいに「どうして僕はこんなところに」とつぶやいてみる。僕は、玉城さんを大きな松の木の前に立たせて、ポラを切る。ありがとう玉城さん、こんなところに連れてきてくれて。でも、玉城さん、あなたは誰なのですか? それを確認したくてポラロイドを切る。ポラから映像があがってくるのを見る。そうすると玉城さんのことが、だんだん近くなってくる。