毎日たくさんのことが起きる。仕事、会話、ある場所を訪ねる、電車を乗り継ぐ、食べそしてねむりこける。スケジュール帖は、クモの巣のような文字で、まっ黒になる。いいこともあり、イヤなこともある。しかし、ただ、淡々とやるだけだ。それは皆と同じだろう。一枚ずつ切符をきり、お茶碗を洗い、電話に出て、そして、その日を終える。この世界の出口、別世界への入口のことをすこし考えるが、時はたち、日は沈み、そして、また次の日の太陽がのぼってくる。書かれたすべての本は、ガイドはしてくれても、その中に出口も入口もはっきりと書かれているわけではない。どんな美味のものも食べればなくなり、酔いもSEXの恍惚も、すぐに失われてしまい、ループはまたもとに戻ってゆく。淡々と生の作業をこなし、はて、どこまで遠くまできているんだろう。この問いからは、王様であれ、テロリストであれ、美人であれ、自閉症の人であれ、逃れられない。
ダンボール箱の中から、もう聴かなくなってしまったCDをとり出して聴く。パール・ジャムの「バイノーラル」をかける。このCDをきく理由はない。けれど聴く。たしかに買ったのは僕だ。本棚から昔書いたノートをとる。1996年。これを見る理由もない。別に過去に興味があるわけはない。CDを聴き、ノートを読むのは、今のためだ。それ以上に理由はない。そうしたからと言って、逸脱できるわけでもないのに。
ふと気がつく。生きるためには、イメージを追い求めることが必要なのだと。こんなことは、ずっと考えていたはずだし、他人にもそうしゃべってきたのに、目が醒めたみたいに、ふと気がつく。日々は消え去ってゆく、とパール・ジャムのエディ・ベダーが歌ってる。エバキュエイション、避難、避難と叫んでる。無関係の関係。ポラロイドの箱の中の写真をとり出して見る。これも他者に見せない限り、何の意味もない。ほったらかしのCDとノートの文字と同じように。でも、やりたいことはただ一つ、イメージを追い求めること。それさえやり続けられればよい。あとは、それの生け捕り方だけだ。それはどんな手をつかったっていい。普通の倫理を逸脱したってかまいはしない。
イメージ・ダイアリー、イメージ・オージー、イメージ狩り!!