昨年から今年の4月にかけて、何人もの人がこの世を去った。もちろん毎日、たくさんの人がこの世を去ってゆく。僕にとって死とは、あまり大きなことではなく、本当に、この世を去って、どこかへ行くだけなのだという感じがする。どんな愛する人であっても、ずっと毎日、すべての時間いっしょにいることはないのと同じで、離れていても、いっしょにいるという感覚が強ければ、それは、いっしょにいるということなのだと思う。だから、「死んだ」人は、あまり「死んだ人」ではなくて、ちょっと逢わなくなった人でしかない。たしかに、もう逢えないし、お茶を飲んだり、インタビューしたり、笑いあったりできないのかと思うと、すごく残念ではあるのだけれど……。
だから、この世を去った人には、おつかれさまでした、よくやられましたねというコトバを送りたいと思う。僕は移動が多くて、時々、自分にとって大切な人が知らないあいだにこの世を去っているのを知って、申し訳なく思うことがある。ふだんは、こんなことを書こうとはあまり思わないけれど、大切だと思うから5人の方のために、レクイエム、鎮魂歌を綴っておこう。
1人目は、作曲家の伊福部昭さん(2006年2月8日没)。『独特老人』にそのインタビューを収録できてとても光栄です。あなたは、民族系の作曲家だと思われていますが、前衛魂と精神の古層が一体となった巨大な芸術家だったと思います。あなたは、何千年、何万年のパースペクティブをもって、作曲されていました。ですから、僕にとって、あなたの思考、作品は、未来に満ちたものです。世田谷のお宅を訪問した日のことを今でもはっきり憶えています。あなたがアイヌの村や戦争中に満州をまわって収集した「歌」は、人類の宝に他なりません。その人類のDNAを誰かが未来へむけて、継承してゆくことが必要になってゆくでしょう。
2人目は、シューズ・デザイナーの高田喜佐さんです(2006年2月16日没)。喜佐サンには、『花椿』でインタビューしたり、WORDの時には、デザイナーの三原康裕君といっしょに対談してもらったことがあります。彼女のクツのことは70年代から知っていたけれど、数年前はじめて会った時に、ああ、これが僕が20代の頃にあこがれていたお姉サンみたいな人なんだと思いました。女の人というものは、素敵なものです。僕は80年代の終わり頃、南青山3丁目に住み事務所は4丁目だったので、いつも喜佐サンのお店を見て過ごしていたものです。お会いした時は、もう僕は鎌倉に引っ越していたけど、元近所のそのお店に行き、近くの店(夜しかやってない近所のバーを昼間あけてもらって会った)で随分話をしました。その時、セロニアス・モンクの映画の話を喜佐サンから教えてもらいました。いつも手ぬぐいを送ってくださるのを、あんまりかわいいから、僕がルリユール(栃折久美子さんがやってらっしゃった装丁教室)にかよっていた時、それを使ったノートを2冊つくりました。あー、あれを喜佐サンにプレゼントしたかったなぁ。まあ、大切にとっておきますからねー。
大橋歩さんがいつも贈ってくださる『Arne』のバックナンバー(9)には、大橋さんが喜佐サンの葉山の家をたずねた時の記事と写真がのっています。喜佐サンがこの世を去った時、僕はすぐに思い出して、移動用のトランクにそのバックナンバーを入れて、何度も読み返しました。悲しいとか、残念とかいうのではなくて、やっぱり素敵な人だったなあと思うからです。浜辺からすぐの古い家で、毎週末になるとやってきて、浜辺にすわって、たばこをふかしたり、新聞を読んだり、犬を散歩させてる見知らぬ人と話して半日を過ごす60才過ぎの女の人のなんと素敵なことか。喜佐サンの笑い顔はとてもすばらしかったけれど、同時に、どこかいつも寂し気で、僕はそんなところが、とても素敵だったと思います。
喜佐サンの靴の写真をあつめた本を持っています。本当にいい本だなあと思える本です。無欲で、生を楽しみ、明るく、人をいい気持ちにさせてくれる。それを素敵と言うのです。やっぱり僕にとってのお姉サンのような人だったと(一方的に)思っています(喜佐サン、またどこかで会いましょうネー)。
さて、3人目はナム・ジュン・パイクさん(2006年1月29日没)。パイクさんには、80年代ワタリウムがまだ、ギャラリーワタリと言っていた時、オープニングパーティーでインタビューをしたことがありました。パイクさんは、ワルツのような3拍子というのは、朝鮮から生まれ、それが中国の砂漠をこえてヨーロッパに伝わっていったのだよという、夢のような話を僕にしてくれました。メディア・アートという最近のものをやる人が、古代的感覚をもっていることに僕はとても惹かれるのです。
この間N.Y.に行った時、坂本サンの家に行ってインタビューしていて、パイクさんの話になりました。坂本サンはパイクさんの追悼会にも行ったそうです。2人で、ヨーゼフ・ボイスが日本に来て草月会館でイベントをやった時の話をしました。パイクさんが、卵を用意して、そこにピアノをたおした話になりました。僕もその時のことを今でもありありと憶えています。坂本サンはその時のイベントを収録した音源をもっていて、それをミックス素材にして、追悼イベントの時に流す用に「曲」をつくったのでした。休日で、スタッフも誰もいない坂本サンのところの半地下になっているスタジオで、パイクさんへのレクイエム曲が流れるのを2人だけで聴きました。さようなら、パイクさん。パイクさんは、死んだ時、フロリダだったそうですが、やっぱり砂漠をひょうひょうと一人歩いてゆくのが似合います。
4人目は、ジャズギタリストのデレク・ベイリー(2005年12月24日没)です。ニューヨークからの帰りに、小銭があまってるので、売店で飛行機の中で読む用に雑誌を物色。イギリスの雑誌だけど『WIRE』(この数年の雑誌の中ではすごく好き。編集がとっても刺激的でインスパイアされっぱなし)をゲットしたら表紙に「Derek Bailey 1930-2005」のクレジット。読んでみたら、デイヴィッド・トゥープによる追悼小特集だった。ハックニーに住んでいる若い時の写真がとても印象的でした。彼のギターは、ほんとうに鉄鋼のワイヤーでできた蝶々の動きみたいで、昔、京大西部講堂に来た時に見に行ったことがあるのです(なんと共演は阿部薫、近藤等則らだった)。アブストラクトでランダムネスだけど、とても官能を刺す音楽だった。フリースタイルの冒険者だと思います。東京に帰ってきて、木幡和枝アネキに電話したら、デレクが死ぬ4日前にロンドンの家でいっしょにいたと言います。木幡さんはデレクの音源をもっていて「なんとかお返ししなくっちゃね」としんみりと、かつ力強く言いました。そう、フリーへの道はまだまだ続く!! ハン・ベニンクとの共演CDがないか探したが見つからず。写真家の塩田君に電話したら、やっぱりもってた。「CDにやいといたげますよ」。なんてやさしいやつ。また「伊勢や」に行って一杯やろうぜ。デレクを追悼するためにね。
さて、最後が、スタニスワム・レム(2006年3月27日没)。1921年生まれのポーランドのSF作家。『ソラリス』はタルコフスキー監督によって映画化されたことでも有名です。レム自身も意識していたが、僕も彼こそボルヘスとならんで、「想像力」の限界に挑戦において小説を書こうとしていた人だったと思う。僕の本棚にはレムの本がある。それは『完全な真空』と題されたレムによる書評本なのだが、実はそこに収められている16冊の本は、「実存しない本」なのだ。レム自身も書いているように架空書評の本は、ボルヘスにもある(彼は『伝奇集』の中に「ハーバート・クエインの作品の検討」というその種の試みが行われている)。
「架空の書評」をするためには、「架空の本」を設定しなくてはならない。しかし、これから書かれようとしている本はすべて、「架空の本」と言ってよいのではないだろうか。そうしてみると、レムによって偽造された『ロビンソン物語』や『性爆発』などの本はどれも、まだ書かれていないだけの本なのだ。レムの頭の中では、それらの本がすでに存在し、存在するが故に書評を試みているのだから。「存在する本」と「架空の本」を隔てているものなんてないのだと思うのだ(それに、一生のあいだに読める本なんて有限な冊数なんだし。存在していたって、“ない”に等しい本はごまんとあるのだ)。
僕がレムに興味があるのは、つねに「ある」と「ない」を問題にしているから。僕は編集者だし、本をつくる人なわけだけど、やっぱり「架空本カタログ」をつくってみたいという欲望がずっとある。坂本サンが昔、『本本堂未刊行目録』というのをつくったことがあるけれど、僕は僕でそんなカタログを、そう遠くない将来つくりたいと思っています。
レムにはずっとインタビューをしたいと思っていた(夏にはいつもウィーンへ来ていたらしい。沼野さんの文章でそれを知って以来、ずっと考えていた)。でも、間に合わなかった。しかたない。でも、レムの『完全な真空』にならって本をつくってみたい。その種をはっきりうえつけてくれたのはレムである。会えなかったけど、ありがとうレム。
ちょっとだけレクイエムを書こうと思ったら思わず長い文章になってしまった。先にこの世を去ってしまった人たち、ごくろうさまでした。あなたたちは、がんばりました。この世からはいなくなってしまったけれど、僕の中にははっきり生きてますよ。
少なくとも、僕が生きてる間は、あなたたちは、僕に姿カタチをかえて、生き続けますからね。
とりあえず、ひとまずアディオス!!