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LIFE is SWEET 128 / 『ノマディズム』を編集しながら考えていること

何も終わっていないのに、何かを始めようとしてしまうこと。人生は流転で、自分がコントロールしようとしても、コロコロとまわっていってしまう。それを止めて、しっかり見て、ああこの目の前にいる人は自分にとってどんなに大切な人で、僕はこんな人間で、やるべきことはやり、悔いののこらない瞬間瞬間の決着をつけながら生をまっとうすることができたら、どんなにかよいだろう。しかし、往々にして人生は、何も終わらないうちに、次のことが始まってしまう。
 
ひさしぶりに自分のポラロイド写真集『wasteland guide』を見返していた時、そう思った。たまにこの写真集を見返すが、過去だなと思ったことは、奇妙なことに一度もない。なつかしくなどないのだ。見るたびに、僕の現実の一部になっていくという感じで、うしろにまとめた文章も読むたびに、ああ後藤繁雄という人はこういうことをしている人なんだと自分で発見して、おかしな気持ちになる。奥付を見ると2001年とあり、そうだ、911のTVの映像を最後に撮って入れたことを思い出した。

『ノマディズム』というタイトルの本がもうじき出て書店にならぶ。今は、それがどんな本なのか知っている人は、この世にほとんどいない。それが本屋の店先に並んだとたん、みんなのイメージになる。イメージが一人歩きしていって、僕が所有できるものではないものになってゆく。そのことがとても面白い。このような本をつくる時は、僕であって、僕でないものをつくろうとしているのだと思う。僕も、僕という物語の観客なのだ。
 
帯のコピーにこうある。「ノマディズムとは、旅と写真と愛に生きることだ」と。それは僕が書いた。世界のあちこち、いろんな人に出会って作ろうとした本だ。自然にできあがったというよりも、作ろうとして生きた。その記録のような本だ。
 
僕はいつも逸脱の衝動のようなものが体の中にすみついていて、落ちつかなかった。小学校の頃も、通信簿に「注意力散漫」とか「協調性がない」とか、いつも書かれていたっけ。散漫、いいのか悪いのか。でも、僕らしいなと思えるように生きてしまった。
 
ノマドというのは、まつろはぬもの。風来。よるべなきもの。ジル・ドゥルーズがニーチェについての文章で書いていたように、この世界の中では、呪われた者としてあつかわれる。この間も、ある書評で「ボヘミアンな人」「ロックな人」とか書かれてしまった。でも、本当にそうなのだろうか。僕は子どもの頃から、不良だったこともないし、何かにアディクトしたこともない。無頼ではまるでないと思う。
 
『ノマディズム』は、自分の中のまつろはぬ感覚、それの総決算みたいな本だ。菊地成孔の「パリの夜」から始まり、アントワン・ダガタとの「東京の夜」で終わる。別にボヘミアン讃歌ではなくて、ニガイ本だ。まつろはぬ自分への、決別の書、成仏させるための書みたいな気がするのだが、読者はそうは思ってくれないかもしれない。どうだろうか。
 
この本を書いているときにうかんだのは、『新しいうた』というタイトルの本だ。歌を聴きに旅をする本。でもその前に終わらせておきたいことがある。それはポラロイド写真集。これが終わらないと、新しい星への旅は始まらないのかなあ。そんな気持ちでいるのですが。ランブリング・マイ・ハート。

とはいえ、『ノマディズム』もうすぐ、完成、印刷中。ぜひ読んで欲しい本です。よろしく。

LIFE is SWEET 127 / アブラカダブラ

観測史上、一番暑かったらしい夏が急に終わった。僕はTVも新聞も読まなくて生きているので、天気予報がどうなっているのかは、知らない。朝起きて、窓の外の木々のこずえと空を見て、今日一日がどんな日になるのかを想い描くだけだ。「夏が終わっちゃったねえ」などと軽口をたたきあいながら、明大前の駅前のマンションの隙間道をぬけて、塩田君が僕を家へ案内してくれる。むらさきの花がアスファルトの上に散っている。地面にすわりこんでパンをたべているカップルがいる。雨がいまにも降りそう。僕の布のバックにも、小さな折りたたみ傘が入ってる。きのうの夜、めずらしく飲み過ぎて、アルコールで体と心のもやもやを無理やりごまかそうとしたので、ばちがあたった。でも秋のおとずれと、体の重さが、妙に一致している。何かが去るということは、何かが始まること。でも、何が始まっているのかは、まだ、僕にも誰にもわからないこと。
 
雑草がはえて、標札のない家につく。ドアをあけると、2階から黒猫のキルがむかえにくる。青く光る鈴、きれいな首輪。僕はひどい猫毛アレルギーなので身構えてしまう。キッチンとつづいたリビング。ソファに腰かける。ゆるく扇風機がまわっている。
 
コップに水。ゆっくり飲む。僕は今日は、塩田君の「むかしの写真」をもう一度見直したいと思って、彼の家にやってきていた。部屋には人形やオブジェやおもちゃや本があふれている。塩田君が立ち上がって、レコードをかけにゆく。ゆったりしたアコースティックのカントリーがかかる。ちょうどいい速度だ。いろんな話をする。よいエネルギーと悪いエネルギーの話。起こることと、起こらないこと。写真は不思議なもので、撮ると、それは自分の現実の一部になって、自分の行く先のサインとなる。すぐれた写真家はそうやって、自分の未来をつくってゆく。これが僕が写真家からたまわった恩寵だ。インタビューも似たところがある。出会いが、未来をつくっていってくれる。自分の人生を遠いところまで運んでいってくれる。
 
「これは何?」と僕はきく。「ジュディー・シル」と塩田君がアナログ盤を僕に手わたす。「70年代の人、幻のアルバムだったらしい。最近再発されて。CDもあるよ」。窓からのすきま風。塩田君はたばこをふかして言う。キルが歩きまわる。僕にすり寄ったり。きれいな目、きれいな黒。とても不思議なことに、一度もくしゃみも、かゆくもならなかった。初めてのこと。雨が降り出す。スコールみたいだ。「じゃあそろそろ見る? 出しといたんだよ」。2階から茶色の袋をもってくる。
 
4冊のポートフォリオ。いや手製の写真集。10年ぐらい前の写真たち。友人。アメリカへ行った時の風景。車、ヒト、見上げたビル。ストリートフォトグラフス。アルバムのタイトルにwinner and loserと手描きされている。バーニングマンのところは行った時、ある男がつけていたバッジのコトバだと塩田君は言った。カウチに2人ですわって、一ページずつ、何度も見返した。時期というものは不思議だ。ダメな時は、いくらやってもダメなのに、時が過ぎ、経めぐればうまく行く時もある。タイミングというのを知ることが、最大のマジックだと思う。僕はやっと今、写真ギャラリーのプロジェクトを始めようとしていて、塩田君をさそっている。奇妙な言い方だけど、いろいろ経て、「愛」ということにたどりついた。作品や作家をあつかう時の、アティテュードとしての「愛」。ちょうど、ロラン・バルトが『明るい部屋』の第二部で語った「愛」のように。

あまりに気持ちがよくて、キルも椅子の上でねむってしまい、これで一日が終わってしまってもよかったのだけれど、ドン・チェリーが演奏するセレニアス・モンクの曲がかかった時に、「かえるよ」と言って腰をあげた。塩田君といっしょに明大前駅へむかう途中、彼がいつも行く古本屋へ行く。「見てもらいたいものがあるんだ」。本屋の奥にあったのは、ボリス・ミハイロフの写真集『ケース・ヒストリー』。無残で、とびきり美しい。僕はボリスとの邂逅の話をする。くわしいことは、『ノマディズム』に書いたからみんなも読んでね。

夜、マジカルでの移転パーティーから帰って、夕方買っておいたジュディー・シルのCDを聴く。シルは、35才で、ドラッグで死んだらしい。2枚のアルバムだけを残して。こんなに美しく、魂にしみる音楽をつくり出した人は、癒されない魂をドラッグで慰安しようとした。そして、幸せとはいえない一生を過ごした。
 
シルはアブラカダブラという呪文が好きだった。それは、錬金術師が、卑金属を貴金属にかえるときに使う呪文だとシルは言っていたという。
 
アブラカダブラ。塩田君、なんだかありがとう。君は、僕の夏の終わりにふさわしい、音楽を教えてくれた。それは君が意図したことではない。でも、タイミングの魔術とはこのようなことなのだ。

アブラカダブラ、良いことが起こりますように。

LIFE is SWEET 126 / うせもの、出る

部屋を大掃除する。そうすると、とんでもないものに出くわしてびっくりする。さがそうと思っても、決して出てきてくれないのに、関係なく。

過去のものをあらいざらい捨ててしまおうと思って、分別していると、突然いろいろなものが出てくる。書き出すと限りない。僕が自分にとっての「先生」だとはっきり言えるのは、詩人・田村隆一と文化人類学者・岩田慶治だと思っているが、田村先生といっしょにスコットランドに行った時、道中の列車の中で隠し録りしていた会話のテープおこし原稿がごっそり出てきた。西脇順三郎のことを話してる。

「シェイクスピアの『ソネット』も訳してる。それから『居酒屋の文学』という評論集があるんだよ。要するにね、文学は居酒屋から生まれる。イギリスの文学ってのは、パブで生まれた。一種のパブ論だよ。……日本酒で一番いいお酒というのは、水の如くスルスルと入るのが一番いいお酒なんだ。だから英語だとさ、アルフィッシュというんだね、大酒飲みのことを。魚が水を飲むみたいに飲む」
——先生はどんな魚ですか?
「僕が自分で鏡を見てつくづく観察した所によると、かますの干物だね。でも、もうもどらないね(笑)。やはり、もうちょっと生きていたいなと思うのはね、あなた方が60歳を越した時にどんな風になってるかを、ちょっと見たい、そういう興味かなぁ」
——先生は百才をこえてますね。
「あと20年ぐらいだろ」
——いや30年ぐらいですよ。
「すると98才だな。でも、神様はそんな残酷なことはしないさ(笑)」

不思議なもので、そう言ってた先生が死んで来年で10年。鎌倉文学館から、展覧会についての相談があって、どうしようかと思っていたら、箱の中から先生があらわれた。「うせもの、出る」。
 
他のものもある。僕はインタビューが多いから、資料がやたら「地層」になっている。スーザン・ソンタグが死んだ時、木幡和枝さんが書いた文章のコピーが出てきた。タイトルは「Let me see when I can came back again. 東京、京都、ニューヨーク最後の旅」。2002年の旅の思い出が綴られている。帝国ホテル、四ツ谷の路地の鮨屋、ゴールデン街の「ジュテ」。シンポジウムでの彼女の発言。
 
「安寧は人を孤立させる。孤独は連帯を制限する。連帯は孤独を堕落させる」。京都は八坂神社裏の宿。南座、千花、清水寺。奈良は二月堂。田中泯『たそがれ清兵衛』……。このコピーを田村ファイルの中に入れる。順番はシャッフルされ入れかえられ、記憶はミックスされてゆく。これでよい。
 
秦早穂子さんのコピーも出てくる。92年の『ミセス』の原稿だ。書き出しは「21世紀まであとわずか。その間に女の服装は変わるだろうか?」という書き出し。タイトルは、「みんなと渡る道には自分の美しさはない」とある。本文のコトバを編集部が抜いたものだろうけれど、秦さんの毅然としたあの顔を思い出す。元気にされているだろうか。秦さんを、コワイ人だと思う人も多いかもしれないけれど、あんなチャーミングな人はいないと僕は思う。タバコやお酒は、どうしているだろう。資生堂とかで、いっしょにごはんやお酒をしてから、ずいぶんお会いしていないなあ。
 
もう紙は黄ばみ、文字は退色してほとんど見えないFAXペーパーも「地層」から発見される。それは僕が編集長をしていた日本美術誌『古今』に寄稿していただいた志村ふくみさんのエッセイ、それは「色を求める日々」と題されている。書き出しはこうだ。

「朝めざめたは、何故かこんな歌が浮んだ。
  誰が染めし やまといろなる百草《ももくさ》の
    そのひといろを 吾《われ》も染めまし」
 
歌をつくったことのない志村さんが、はじめてうたった歌が書かれた手書き原稿。ゆっくりよみかえし、僕は自分の体の中に、そのコトバを入れてゆく。まるで、年代を経たワインか何か、成熟したお酒を飲むかのように。
 
おどろくべきものもある。それはモノクロ写真の紙焼きの束で、2人の男が写っていた。一人はまだ若い中沢新一氏、もう一人は、ホルガー・シューカイらと伝説のプログレバンドCANをやっていたジョン・ハッセルである。中沢さんは、『チベットのモーツァルト』を出したばかりの頃で、ちょうどアルバム『マラヤの夢語り』をリリースして来日していたジョン・ハッセルとセッティングし、対談してもらった。その対談をどこに載せたかはまったく記憶にないが、その対談のことはよく憶えている。写真の不思議。当時は、モノクロの写ルンですがあって、それで僕は撮ったのだと思う。まだポラロイドをやり出していない頃だ。ていねいに掘りおこせば、もっともっといろんなものが出てくるだろう。でも思い出にふけったりはしたくない。体の中に入れたら、次々に捨ててしまおう。先へ進もう。

僕が書評を書いていた『エスクァイア』のバックナンバーを見ていた。バリ島旅行の特集号。実は僕は、バリへは行ったことはない。ずーっと前に、行こうとしたら、いっしょに行くはずだった友人の吉谷博光が直前に寝込んで“おじゃん”になって以来、縁がない。「そろそろ、OKってことかな」とも思う。うしろをペラペラ見てたら、NY小特集があって、「ワールドトレードセンターで売れている本」というコラムがあった。あわてて日付を見直すと2001年6月(!!)。9・11の3ヶ月前。ワールドトレードセンターで過ごしてる人が読んでたり、聴いてたものがリスト化されていた。ハリー・ポッターなどの魔法っぽいノベルス、2001年のニューヨーク人気レストランガイド。そしてブルース・スプリングスティーンのライブ盤。まさか、あんな大惨事が待っているとは、誰も予想しなかった。しかし、すべては失われてゆく。奇妙だが、そのようなものなのだ。起こることは起こる。起こる時に起こる。

暑い日がまだまだ続くだろう。カラッポにするにはいい季節だろう。さて、次はいかなるうせものに御対面するのやら。